1月10日木曜日、曇り。 今日は冷え込んだ朝です。 しかも曇天、陽光が差さないので気温が上がりません。 それでも外で仕事をしなくちゃならない時は、頑張らなくちゃいけません。 中山道を歩いて、調べまくっておりますよ。 今日はいつになく、長文です。 昨日から新聞やネットで「上松町の中山道」の話題が出てきて、熱心な歴史ファンの方をはじめ多くのお問い合わせを頂戴します。 とてもありがたいことなのですが、一筋縄ではいかない大変さがあるので、今日は踏査状況の続報をご紹介しましょう。 今すぐにでも歩きたい! でも、ニュースになったコースだけは、どうかご辛抱ください。 今回の調査では、伊能忠敬研究会の皆様に多くのご協力をいただきました。 改めまして、厚く御礼申し上げます。 まずイントロの図です。 上松町の地図に伊能隊が記録した測線(正確には、明治時代の複写)を重ねた画像です。 見事に街道を記録しており、現代の道も、その発展であることがわかりますね。 宿場の中の星印は、逗留中に夜空の星々を利用して現在地の緯度を観測した場所。 実際、ここには本陣があり、江戸時代には多くの旅人(皇女和宮も!)逗留されていた記録もあります。 伊能忠敬は、逗留した家主も記録していますから、子孫を調べてみるのも興味深いかもしれません。 赤い人差し指でマークした地点など、道がないように見えますが、ちゃんと現地には歩ける道があります。 伊能隊の測量技術、恐るべき正確さです。 ならば、現在は道のない山中でも、この地図を頼りに確認してみれば発見があるのかな? 「あるらしいぞ、道が」との当時の上司の声もあり、踏査に至りました。 現地の地図は、こんな感じです。 国道19号線とJR中央線がクロスラインになっていて、現代人の便利な交通網は、そちらに移行。 もう誰も歩いたこともなさそうな山の中です。 赤い線が投影された伊能隊の測線。 この名残を探します。 いきなり目前に道が現れて、「これはいけるか!?」と思ったのですが、現実はそんなに甘くなかった。 道の跡は、間もなく寸断してしまいました。 改めて、現代地図に投影したルートを見てみましょう。 赤いマークをしてある場所、等高線の形と道の形のRが逆向きですね。 これだと空中に道路ができてしまいます。 これほど大きな地形の変化、何が原因かと思ったのですが、歩いてみてわかりました。 明治時代に整備され始めた国鉄の敷設で、擁壁が山肌に入り込み、当時の中山道を削ってしまっているのです。 現代の利便性とトレードオフになった街道、これもまた歴史の記録といえるのでしょう。 また沢とみられる谷では、斜面が削られた場所もありました。 というわけで、実際には中山道を可能な限り踏襲しつつも、現在の地形に沿って歩くことになります。 時々、眼下に中山道と思われる棚が見えたりして、感慨深くなったりします。 文明の利器、スマホに内蔵されたGPSロガーで、実際に歩けそうなルートを踏査した結果が、こちら。 青い線がGPSの軌跡です。 途中、崩壊が著しい箇所を覚えておくため、くるりと歩いて円を描いてあります。 また上半分、北部は完全にJR中央線と重複してしまうので、ガード下をくぐって木曽川沿いに抜けました。 伊能忠敬が歩いた第7次測量は、1809年からと伝えられます。 もう200年も前のこと。 しかも、その後には皇女和宮の大行列が通過したこともあり、街道を整備した可能性もあり得ます。 当時とは若干違いながらも、その面影を偲んで歩けるコースというのが現実的なところでしょうか。 しかし当時の地図を見ると、今回のGPS踏査より標高の高いところへ歩いたような形跡もあり、まだ多くの痕跡が残っているかもしれません。 また追って、調査を続けていきたいと思います。 そうそう、伊能忠敬の測量日誌には「寝覚の床」の眺望よし、と記載されています。 当時から中山道の名勝だったんですね。 また新鮮な視点でご案内できそうです。 |
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